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 何曜日の何時間目なら、どの学年も体育の授業をしていないかを黒川は知っている。
 その視界の半分は空だ。すこし田舎のこの街は、屋上に上ってなお視界を極端に阻める建物など点在しているにすぎない。
 シート代わりに敷いているハンカチの上からスカートが風に浮かされる。習慣的に履くようになったハーフパンツや、一枚余分に持つようになったハンカチ。頻繁に来るわけではないが行きたいときに行けるように。
 授業時間を屋上で過ごすのは随分前からのことだ。
 これだけの広い空間が不自然に静まり返っている。黒川が座っているコンクリートの下に、何百人もいるというのに、この静けさは一種不穏でさえある。
 背にした、箱のような入り口はうまく職員室から死角を作り出していた。階段を上ってきた瞬間さえ見咎められず裏手のこの位置に来ればひとまず安心できる。
 傍らにおいた本の黄色い表紙に、あくびをしながら手を伸ばす。既読の本だ、眠気に負けても構わないと承知して持ってきている。
 散漫な思考で思い出せば次の授業は世界史だろう。額から後ろに長い前髪をかき上げる。チャイムが鳴る前に屋上を出て校内に戻らなければならない。
 息が詰まる薄暗い廊下を通って。
 黒川は青い空に、顔をあげて息継ぎのような呼吸をした。



 気まぐれのように本のページを繰る手が止まる。
 生徒か。ふと静けさに入り込んできた異変に耳を澄ましてからそう判断した。
 階段を足音を忍ばせて上がってくるリズム、それからドアを開けて聞こえてきた変声期前の侵入者の声。教師でないのは確かだがまだ警戒を解くわけには行かない。この学校には教師より不味い人間がいるからだ。
 本を閉じて、暫くそっちに意識を傾ける。
 鼓動は正常、頭も余分なことに配分を割いてはいない。
 大したことではないけれども黒川は自分のこういった、割合度量のある部分を好いていた。
 しかし声の判別がついて苦笑を浮かべる。
 聞き覚えのあるそれはクラスの男子のものだったからだ。そしてどうやら裏側からは見えない入り口付近に声は固まっているから顔を合わす必要もなさそうだ。
 密かに息を抜こうとした瞬間、黒川は先ほどなどより余程ひやりとさせられる。
(バカ寺! こんなところで口喧嘩始めるなんて)
 入ってきたときから微かに舌打ちが聞こえたり、穏当な空気でないことはわかっていたが。校舎の造り上壁は厚くても今の時節、窓を開け放っている教室が多いのにも拘らず叫ぶ声が黒川の耳に届く。
 さぼっていることなど誰にばれても構わないと思っていたが、他人間のとばっちりを喰らうのは御免だ。耐えかねて壁面から顔を覗かせると、予想通りの銀髪が見えた。もう一人はたまにしか声が届かなかったが、獄寺と一緒なのだから、という推測通り野球部員でありながら丸めもせず整髪料をつけた黒髪。
 山本は激昂する獄寺とは随分異なって、穏やかに、困った笑みを見せていた。あんな顔して怒鳴られている人間を黒川は初めて見る。そしてあんな表情を、山本がするとは思っていなかった。



 口論はあっという間に終わった。獄寺がどんなに罵倒しても微笑を続ける山本を有無を言わせず押し返してしまったのだ。そもそも口論ですら、なかったのだろう。
 獄寺は、混じっている日本人以外の血の所為で同年代よりは大人びた顔つきをしている。それでもどう見ても成人ではないし何より自覚はあるのだが言動が子供のようなのはどうにもならない。
そんな自分がポケットから出したものを咥えて手馴れた様子で火を点ければ、傍らにいる人間は忠告めいたものから揶揄するものまで何かしらのリアクションをしてくる。
 しかし今横にいる人間はそんな気配をさらさら見せないので、なんとなく素直にいるかと煙草を差し出した。受け取ったその箱の底をトンと叩いて一本を器用に取り出した彼女は黒目勝ちなその虹彩を獄寺に向けてきた。
「火は?」
 言われて再びポケットに手をつっこむ。
「ありがと」
 なんだよ吸ったことあるんだと、煙を吐いて吸う合間にもらした。
「黒川だっけ?」間違っている可能性はないと思うその名の確認に、黒川は答えなかった。
「なんだメンソールじゃないの」
「はあ? メンソールなんて不味いの吸ってんのお前」
「黒川」
 もう一度はあ? と今度は間抜けな響きで言いそうになったが、堪えた。
 お互いの関係はクラスメイト。または友達を好きな人の友達、また、その逆。全く大したものではない。けれど中学生が校内で肩を並べての喫煙は、妙に親密な何かを齎すものだ。
 黒川は前からこのイタリアから来た派手な人間が気になってはいた。このどうしようもなく目立つ銀髪とそれに引けをとらない顔立ちの、人間そのものではなく獄寺が来てから幾人かの人間の極端な変化が。
 自分に直接関係しないものなどに構う趣味はなかったというのに、その珍しさからこうして態態、盗み聞きの汚名を甘んじて受け獄寺の前に姿を現してしまった。
 煙はすうっと伸びかけて、すぐに風にかき消される。
 この紫色の煙の味を娯しむことを黒川は、熱中まではしないものの知ってはいた。
「これって何、イタリアの?」
 獄寺が肯いて、差し出された手にまた箱を渡してやる。
日本のじゃダメなのという今度の問いには肯かない。
「こないだ部屋から出てきたから。なけりゃ適当に日本の吸ってる」
 いつのだよこれ、という口ぶりとは逆にゆったりと黒川の口の端があがった。だめだ全然読めない、と笑ってイタリア語の書かれた箱を返される。
「やるよ」と言った。ただ何となく。こうやって誰かと煙草を吸ったのが久しぶりだったからかもしれない。
 けれどにべもなく要らないと言われて眉を寄せる。
「いや正直うまくないよこれ。私には――」
 重すぎる。そういった黒川の髪は黒く艶やかにうねっている。そしてその目は山本のあかるめの虹彩とは違って光を反射せず獄寺にはひたすらに黒いだけに見えた。



 黒川が一本吸う間に獄寺は二本目に火を点けようとする。その時口元に持っていった指から煙草の香りがした。
 ざあっと強風が吹いて、ライターの火が揺れる。苛立ち紛れの獄寺の舌打ちに被って声がする。
「あ、本!」
 黒川が無造作にコンクリートの上に置いていた本が煽られて僅かに地面を進んでいく。獄寺は反射で手を伸ばす。
「取って、その本――」
 重さで大して飛びはしないそれを捕まえて黒川に渡す。「私のなの」
「珍しく焦ってるかと思えば……。こういう時って図書室のだからとかじゃねえの」
「図書室? あんなの貸出記録つけて持出したことないよ」妙に似合う皮肉った笑顔を見ながら二本目にやっと火を点け、こいつ図書委員だったよな、と獄寺は思いだす。
「"チボー家の人々"」
 黒川はそういった銀髪のクラスメイトを見て、知っているのか、単に表紙を読んだだけなのかを知ろうとする。その動機は勿論多少の驚きがあったからだ
「んだよ、知ってちゃ悪いか」
 幼いその言い方に冠りを振る。きっとイタリアの方が日本より知名度が高いのだろう。それにしても獄寺が本を読む人種とは思えなかったが。
「まあ……タイトルくらいしか知らねぇけど」
 そう頭を掻いた獄寺に黒川はにやりと笑った。
「あげようか」
「いらねえよ」



 獄寺が二本目を吸いきるのを待たず黒川は先に教室に戻った。授業は早めに切りあがったらしく、自分の教室だけが既に休み時間の様相に相成っていた。
「花! また古典さぼって。いい加減先生可哀相じゃない」
 黒川の姿を一番に見つけたのは笹川京子だった。さぼったことを怒られているのか古典の教師を蔑ろにしたのを怒られているのかはよくわからなかったが、取り敢えずの謝罪を言うと京子は表情を和らげる。その様子をこっそり見ていた沢田がほんの少し顔を赤くしたことをみつけたのは目敏い自分くらいのものだろうと黒川は思う。
「でも世界史には戻ってくるものね。今日もまた屋上だったの?」
 京子だけは自分が時たまいなくなる行き先を知っている。そしてその言葉に反応したのは、沢田の隣にいて野球雑誌を広げていた山本だった。
 山本は頭の悪い、よく騒ぐ、大体の人間から好かれている小学校でも中学にあがってもクラスに一人はいるタイプの人間だった。同い年の男なんてガキだという自分がよく槍玉にするのもこういった種類であることが多い。
 黒川は、自分が見ていなかっただけで山本は意外とあんな顔をする人間だったのじゃないかと錯覚した――。
また、山本はあの穏やかな苦笑をして、こっちを盗み見ていた。そしてしっかりと黒川の目を絡みとってから口の動きだけでごめんなと言う。
 ――いや、そんなはずない。誰でもあの顔をしているのを見れば、山本って馬鹿だよな、などとつい口をついてでてくることはないだろう。あの顔をするのは大人の人間だ。



 いらねえよ。
 そう答えてから獄寺は黒川を見て「お互いさまってこういうとき使っていいのか?」と訊いた。
 使えなくはないけれどわからない、と答えた黒川に、獄寺はそっと表情を変えた。眉を顰めた不思議な笑顔だった。
 どうせそんなことだろう、といつからか気付いてはいた。自分が小ばかにするほど彼らだって子供ではないのだ。