世の中いやな冗談が蔓延しているものだ、街中で下から黒い筒を差し向けられた黒川は舌打ちをした。子供は嫌いだし子供みたいな冗談を子供がしているのは微笑ましいどころか虫唾が走る。
「どきなさいよ」
 バイトに行く途中の道を塞いだのは、子供だった。まだ十に満たないだろう少年が黒いスーツに帽子を被って何のごっこ遊びか知らないが、無条件に黒川の神経を逆なでする。
「久しぶりだって言うのにご挨拶だな」そういった少年がくいっとあご先で何かを示す。
 何かと思い、その動きのまま視線を動かせばそこには黒塗りの胴体のやけに長い例の車が。
 ――さすがにこれは冗談じゃないでしょ。
 見せられただけならともかく背後から、やっぱり黒ずくめの男たちに拘束され力ずくにリムジンに押し込められたときには、そう観念していた。
 そうして誘拐される覚えのない黒川は、こういった関連の知り合いがそういえばいなくもない、と気付く。
「悪いな、急ぎだったんだ」そういって帽子の鍔をあげた少年に、やはりとため息をつく。
 以前に見たのは何年前だったか。変わっていないはずはない。成長の早い時期だけあって当然体格は比べようもなくなっている。しかし一目見ればそうとわかる、その視線の鋭さがいやに研ぎ澄まされている。
「沢田んとこのガキ……付き合うけど、取り敢えずバイト先電話させて」
 周りを黒ずくめに囲まれながら図太い黒川の頼みに昔通り口元だけの笑みをリボーンは浮かべた。「それなら問題ない。伝えておいたぞ」
 はあ?! と噛み付く黒川を余所に少年は続ける。「俺もあの店は気に入って使っている」
 黒川のバイト先は、都心にあるビル丸丸一つに展開している本屋に入っている喫茶店だった。客の大半は本屋で買ったものをコーヒー一杯で読みふける、普通の喫茶店では嫌われる客ばかり。けれど丁寧な接客が心地よく黒川もバイトをする前はよく利用していた。
「そういえば……」バイト先の友人が超渋くてかっこかわいい子がくるの! と騒いでいたっけ。
 子、という時点で黒川の興味をひくことはなかったが、それを目の前に突きつけられては不覚にも、彼以外にこの矛盾した形容詞を冠することは相応しくないと思える。そしてその言葉も多少魅力的なものだと認めざるをえなかった。
「あんたがそういうなら、大丈夫なんだろうけど……」彼の強制力を身をもって知った彼女は、なら急ぎの用とやらを、と先を促した。
「ここ数ヶ月、諸事情で日本にきていたんだ。まあもう戻るんだが、あと数日で出立というところで収穫と、それに伴ってちょっとした問題ができてな」

 VIPルームというやつだ。
今日の講義は一限からだったから化粧は仕上げを忘れた部分もあるし髪はほぼ手を加えていない。いや、そんなことはおいておこう。だってなにこれってか誰だよお前。
 黒川は半ば呆然としてひとまず疑問に感じたので口にしてみた。
「沢田、二十歳になった?」
「……俺はまだ」
 いきなり久しぶりに会った拉致されてきた旧友の挨拶に少し戸惑って、ツナは答えた。
「ってことは黒川は二十歳?」首を否定に振りながら少し落ち着こう、と煙草をとり出す。
 苦笑する、自分と話すためにVIPルームを借りた仕立のよさそうなスマートなスーツを着た十九の男は、でも童顔だった。その顔が浮かべた微笑。自分は老け顔のまま変わっていないが彼もまた変わっていない。背景をわすれ置けば黒川はそう感じる。
 講義室の椅子と比べれば、荘厳とも言えるそれに座れば目の前に置かれていたグラスの中身がシャンパンでびびる。こちとら一杯五百円のコーヒーを売る身だ。
 そんな上品さを浪費しまくった部屋に身を置きながら、自分の配分を取り戻そうと軽口を叩く。部屋に二人きりにするよう言ってくれた沢田に感謝した。
「沢田の呼び出しっていうからマックとかサイゼとかかと」
「ははっ、懐かしいなそれ」
 笑ってくれて一応は安心する。
 黒川だってマクドナルドなどここ数年行っていない。けれどその懐かしさとはベクトルが違うだろう。
「黒川は今何してるの」
「……特大の仏文科」
「えっすごいじゃん特大なんて! 頭よかったもんなあ黒川」
 そこで本当に凄そうな顔をする沢田を黒川は凄いと思った。何をしていると訊かれて学校の名前しか出てこない自分にお前が何を驚くことがあると、口に出せないことを思った。
 黒川が黙って煙草を灰にしているとツナが気まずげに切り出してきた。
「黒川は俺が冗談じゃなくてマフィアだっていつ頃気付いた? というか俺は普通に気付かれてないと思ってたんだけどリボーンに言われて知って」
「……高校のときかな。まあ獄寺とか山本とか集まって遊んでるだけじゃない、って気付いたのは、ほら、中学の」
「――ああ、骸のときか」
「? 黒曜中のあれ。尋常な事態じゃなかったのに、あんたたちが収めたっていうじゃない」
 そうか、黒曜のときか――とツナは目を細めた。
 黒川はその様子を観察するように見ていた。そうした姿はあの童顔が、不思議とこの空間にはまっているようで既に彼はあちら側の人間なのだと今更ながら思い知る。
「いいじゃないそんなこと。事情は、車内で子供から聞いたわ」
「子供……」
 7歳を子供と呼んで何が悪いの、とツナの苦笑を殺す。
居心地のために作られた車の中で落ち着かずに聴いた話では、どうやら収穫とはプロボクシングの世界にいた笹川了平がやっと彼らのファミリーに入る運びになったという。
 笹川はプロになる前から彼らが正真正銘のマフィアであることを知っていて、それ以降も協力をすることがあったが妹には一切それを知らせずにいたらしい。
「――まずは、おめでとう。よかったね」
 え、とツナは息を呑む。今度の件で京子へのフォローを、今まで無関係だった黒川に持ち込んだのだ。彼女の性格上、冷静ににちにち罵られる覚悟を、してきていたのに。
 心持柔らかい顔をした黒川をツナは意外な目で見つめた。
「あんたの部下になってくれるなんて男がデカいじゃん、お兄さんも。それに前前から味方になってほしかったんでしょ」
「あ、うん。そうだけど」
 黒川は手にした煙草の根元近くになった火を、何やら細工の細かいガラスの灰皿に捨てる。丹念に押し消すことはせずに無表情でそこへ細いグラスからシャンパンをそそいで消した。
「それで、京子のケアするのはいいけどマフィアのことはもう知らせていいの?」
「うん……というか、説明つかないと思うし、今となっては」
 お兄さんは隠したがってたけど無理があるよね、とツナは笑って見せた。そうね、と短く相槌をうつ。
 なら、どうやって自分たちが揃ってイタリアに発つことを説明したのだろうと思ったが口にしなった。あのときも京子を宥めながら、自分の確信に近い憶測を口にしていいものか悩んだものだった。だってマフィアだ。あの優しそうな、それだけの顔をした沢田が。
 そうだ、その推察を否定していたっけ自分も。それでもいつか認めてしまったのは、何故だったろう。

「あの、それで申し訳ないんだけど黒川」
「まだあるの?」顔をあげるとまだダメツナの面影の残る顔が眉を顰めている。
「いや、黒川の小言を聞こうと思って時間とったんだけど、ないみたいでちょっと時間あまったっていうか」
「はあ?! ばっかじゃないの? 私の小言聞く時間があるなら京子に直接話しにいきなさいよ!」
 つい激昂した黒川は、自分が口にしたことを耳から取り込んだときに引っかかるものを感じた。その答えは目の前にあった。
 会えないよ。言えるわけない、じゃないか。
「さわだ」
 細く漏れたその声に黒川は色を失う。余計なことをいった。
 イタリアのマフィアになる。それはいつ死んでもおかしくない状況だ。ツナの部下になるということは了平の生死は彼が預かっていると言っても過言にはならない。
 先ほど感じた向こう側とはそういう意味だと改めて認識して黒川は下唇を噛む。死んでいるのだかれらは。生きるためには一度死ななくてはならない。
 死の覚悟がなければ渡って行けぬ世界。
 ツナが、どうやって京子に会えばいいというのだ。たとえそれが最後になろうと。死神と罵られてもやむを得ない。
 ああ、いつからか彼はその幼い顔の下で幾人もの命とその喪失を抱えて生きていたのだ。また一つの命を食らった彼は優しい顔を見せた。
 ――そうだ彼の優しい顔は優しいから怖ろしいのだった。
 漠然と持っていた感情はそこで形を持ち黒川を何故か安堵させたが、あの時、彼がイタリアに去ると告げられた京子にこの感情を伝えることはおそらく出来なかっただろうと回顧した。

 けれどまたすぐ訪れるだろうそのときに、彼のためにできればいい。彼が今まで生きてきた責務とこれからも生きる意義を伝えることが。
「沢田、そのスーツ似合ってないよ」そう告げたら彼は僅かに照れながら自分の体を見返した。案外お気に入りなのかもしれない。「次に会うまでには、ちゃんと着こなせるようにね」
「え」
 黒川は笑った。彼が驚いたのが予想通りだったからだ。「成功報酬。当然もらうわよ、そうねやっぱりイタリアンがいいかな」
 彼ら、生きるために死を覚悟したものたちはきっと自分たちから離れている方がいいと信じている。それは間違いではないだろう、黒川もそう思う。
 けれどそう思った心が、別のことを望むのだ。
 そのときは京子も一緒がいい。そうしたい。二度とツナと会うことがなくても、黒川はそう願った。